この地球に生きる

konohoshi ni ikiru

そのままをみる

幼稚園にいるときの息子は、いつもの様子と全然違う。
周りを注意深く見て、決まっていることをきちんとこなそうと頑張っている。緊張しているのが伝わってくる。
やんちゃで人懐こくて、いつも自由で、エネルギーを爆発させている息子の姿を知っている人はきっと驚くと思う。

幼稚園の先生との面談で、息子はよく一人でいるという話になった。言葉でうまく伝えられないから手が出てしまうこともあるし、コミュニケーションがうまくとれないのが心配です、と伝えてくれた。

普段の息子は言葉が達者で、三年生の娘よりも説明が上手なほど。幼稚園であったことも詳しくわかりやすく伝えてくれる。



幼稚園では緊張しているからうまく話ができないのかもしれない。自由だけど繊細なところがある。息子の人懐こくておしゃべりが大好きな性格を知っているから、少し寂しく思ったけれど、うまく言葉にできずその日は終わった。




それから少し経ったある日。息子を迎えに行くと彼は一人で静かに泣いていた。雑巾の片し方を間違っていることを友達に指摘されたようだった。


午後は朝とは違う先生が見てくれていて、前に面談をした先生とは違うおばあちゃん先生が
「○○くんは間違ってなかったんだけどね、みんなが同じように言うから泣いちゃったみたいですよ。」
と教えてくれた。


息子は今日工作で作ったものを見せたいと言って教室に取りに戻ってしまった。


おばあちゃん先生にふと、息子は一人で遊ぶことが多いですか?と聞いてみた。
すると
「一人でいつもいますよ。彼を見てると賢いからみんながまだついて来れないのかもしれない。そういう子っているんですよ。でもそういう子ってずっとそうってわけでもないんですよ。」
と静かに話してくれた。


そういえば息子はその先生にはいろんなことをいつも話しているようだった。
大好きな電車のこと、離れて住むお父さんのこと。いつも詳しく教えてくれて、本当にすごいんですよと言ってくれた。

息子のそのままを見てくれる先生がいることが本当にありがたいと思った。
安心して話せる先生がいることが
私はすごく嬉しい。
心配しなくて大丈夫だった。




以前、ある方が自分が幼稚園生だったときの思い出を話してくれた。

いつも一人でいるのが好きだったけど、ある先生が他の子どもたちに
「なんで○○ちゃんを仲間に入れてあげないの!可哀想でしょ!」
と怒ったのだそうだ。

その日以来、可哀想に見られないように無理して他の子といるようにするようになって、そこからいろんなことが自由ではなくなってしまったと話してくれた。



世の中にはいろいろな人がいて、みんな勝手にその人のフィルターを通して人を見る。
親が子どもを見るときだって、この方が子どものためだ、とか、みんなはこうしてる、とか、いろんな理由をつけてそのままの姿を見ることができていない。

そのままをわかってくれている、見てくれている、そんな人の存在がどれほど貴重か。


沖縄に来て、沖縄の土地や自然が大好きで幸せだけど、ふと七年住んだ上越の友達たちが恋しくて寂しくなってしまうことがよくある。
でも最近少しずつ、本当の私が伝わってるなって感じる友達も増えてきて、そんなときほっとしたり嬉しかったり。
上越でもここが居場所だって感じるまで、すごく時間がかかったことを忘れていた。
時間をかけて、私をわかってくれて安心できる友達ができた。
いまいる場所でも、そうやって安心できる関係がゆっくり育っていくのかな。

そんな関係や存在のありがたさを
改めて感じる。





自分が自分を見るときも
こんな自分じゃなきゃダメだとか
こんなふうな自分であってほしいというように・・
そのままの自分じゃない自分を見ていることがあるなぁと気づく。



何も足さない、何も引かない、
そのままの自分を
そのままの目の前の相手を
みていけたらいいなぁなんて思う。






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